川津勝利(かわづ かつとし)

(1905年9月8日〜1990年2月4日) ロイヤルブレッドの生みの親

川津勝利は明治38年(1905年)9月8日、都賀町大橋の農家の次男に 生まれ、大正13年(1924年)桐生高等工業附属商工補習学校紡織科を卒業後日光に移住。

料理と製パンを習うため、大正14年(1925)年3月25日に金谷ホテルに入った。 大正14年(1925年)11月30日から昭和2年(1927)年11月18日まで兵役招集された後、昭和2年(1927)年11月21日に復職。

以後昭和19年(1944)年2月25日から昭和20年(1945年)3月31日までの間を除き、永年にわたり料理部において製菓、製パンに携わった。 昭和40年(1965年)定年退職後も引き続き嘱託として製パン工場長を務め、通算50年以上もの間、ひたすらにパンを作り続けた。金谷ホテルでは「パンの神様」と呼ばれ、今ある金谷のパンの数々を作り出した。

日光市長賞、栃木県知事賞、運輸大臣賞などを受賞し、昭和52年(1977年)春の叙勲において勲六等瑞宝章を受章した。

聞き書き パン作り50年

昭和初期の料理場  < 左端が川津勝利

「私がパン作りを始めたころ、一番の苦労といえば、パンだねをどうやって増やすかってことでしてね。今は、パンだね、つまりイースト菌は固形化されてますけど、あの頃は帝国ホテルや小田原パンなど大手のパン工場にしか菌がなかったんですわ。それを貰ってきて増やさなくちゃいけない。 増殖の床ですが、これが難しい。アメリカ直輸入のホップを煮出し、ぱれいしょを煮たのを煮汁と一緒にして、小麦粉、砂糖を加えてこね回す。ここへ菌を入れるとどんどん増えるわけだけれど、温度調整が大変。陽気にも左右されますしね。

パンを専門にやってたのは私だけだから、あちこちのパン屋へ行って聞いて回ったですよ。発酵の仕方、粉や水の分量を教わって。 職人同士の気安さで、こちらから頼むと言えば、自分の秘法でも何でも教えてくれました。ま、普通にやってたんじゃ、なかなか仕事についていけないと思って、夜も自分なりに研究しました。家に帰って、一晩寝ずに考えて、明くる日の昼休みや、休みの日に試してみる。そんなことしょっちゅうでしたね。

どうしたら、いいパンができるか。そればかり考えてました。ホテルの方も、外人のコックや、船で何ヶ国も巡ってきた調理人を一ヶ月から一年間も滞在させ、調理の講師に雇うんです。やはり、パンのことは、外人の方が詳しいですよ。

そのうち、ホテルにいらした外人へ、その国に応じて、好みのパンを出せるようになりました。通訳を通して、好みを聞いて貰うんですけどね。 たとえば、アメリカ人は、やわらかくてあったかいのが好き。中をほじくって食べるような感じですね。英国人はパリッとしたヘリを好むんですね。ヘリくれ、ヘリくれっていうんですが、困っちゃいますよ。ドイツあたりは、固いパン。ロシア人は、漂白されたようなものよりも黒パンをよく食べたですね。

今はこねるのも機械化されましたけど、昭和10年頃、石窯から電気パン焼きに替えたときは、ほっとしたですよ。 石窯の周囲は大谷石でできていて、下にコンクリート。ここに薪を放り込んで、窯全体をカッカッと熱くして、火が消えたら薪を全部掻き出して、床をきれいに拭くんです。もう、汗はダラダラ出てくるしね。 ここへパンを入れると、余熱で焼けるんですわ。石窯だとパリッと軽く焼けて、クチャクチャしていないんですね。今は電気しかないから仕方ありませんけど、水分がよく取りきれないんですね、電気だと。

昭和22年(1947年)頃、接収中に

今、工場で作ってるパンは、30種類。新しいパンを作り出すのは一番の楽しみです。これがあるから、50年もパン作り、やってこられたようなものでして。

パンの基本はふつうの食パンですが、粉、砂糖、油脂なんかの配合で、パンの質が全然変わっちゃうんですね。人のまねをしたり、自分で考え出したりするんですが、試作品は人がいない時に、昼休みとか、休みの日とかを使って作ります。新しいパン作りに熱中して、朝は5時頃から夜10時まで勤め先にいるでしょ。だから、結婚して子供ができてもなつかなかったですね。

こうして苦労して作ったパンを喜んで食べていただけるのが一番嬉しいことです。外人の方は、たいてい調理場まで来て、おいしかったと握手してくれましてね。こちらも通訳に頼んで、あなたの国のパンはどうなのか、と聞いて勉強させて貰います。ただ作っているだけじゃ、面白くありませんからね。

天皇陛下がみえた時、とても喜んでいただけたのも、楽しい思い出です。いろいろな種類のパンを出したんですよ。いままで自分が作り出したのを。その中で、陛下は黒パンがおいしいとほめられましたね。そうそう、東条さん(東条英機のこと)も戦時中に見えましたね。 砂糖も配給になっているので、あてつけもあって、砂糖なしの紅茶を出したことがありました。それでもおいしそうに飲んでいたのを見ると、きっと軍人さんたちは、特別に持っていたんじゃないですかね。砂糖か何かを。

パンは粘りの強い強力粉で作るんですが、戦時中は、配給でしょ、粉も。ヤミをやるわけにはいかないから、あちこちから分けて貰って。砂糖も足りないから、麦芽から水飴を作って代用しましたけどね。もっともお客さんもあまり来ないし、張り合いのない時代でした。

近頃は、家庭で自家製のパンを作る方も多いけど、やはり工場で作ったものとはどこか違う。作り方は同じなんですけど、ただ、量が少ないために風味が違うっていうんですかね。結局、自分の特徴が出るんじゃないですか。

私はカマの温度を見るのに、温度計は使いません。手を入れてみて感じる。カンっていうんですか、自然に身についたものですよ。粉だの砂糖も、手ですくって、ちゃんと正しい分量がはかれる。自分のこと自慢するようですけど、1グラムも間違わない。

パンのおいしい食べ方ですか。食パンはトーストが一番。トーストはできたてのやわらかいところでないとだめですね。あと、バターロールとかクロワッサンなどの小物は、ジャムやバターとよく合いますね。パンは、食べる前にオーブンであっためるのが一番の方法です。

実は私自身、パンよりもご飯の方が好きです。パンの味は、見た目とさわり具合と、ちょっと舌にさわっただけでわかりますから。いちいち食べません。何といっても、毎日作っていると鼻につくでしょ。家では、ご飯にみそ汁ですよ。ほかの人は、家で手伝うだろうと思うようですが、料理の話など、全然しませんな。」

(聞き手・柴山佳代子記者/朝日新聞1977年5月11-12日所載)